生まれつき右腕の肘から先がない。
パラリンピックの舞台に立ち、引退後はモデルとしても活動している辻沙絵さん。
「人と違うことは、恥ずかしいことではない。」
そう言葉にできるようになるまでには時間がかかったと語る辻さん。
いくつもの場面と感情の積み重ね。そしてその道のり。
他者と繋がることで開かれていった、自分らしい生き方とは。

──── はじめて“違い”を意識したのは、どんなときでしたか
三歳のとき、弟が生まれました。赤ちゃんを見て思ったんです「あれ? 両手も両足もある…」と。
それまでの私は、人とはどこか欠けた状態で生まれてきて、大きくなるにつれて形成されていくものだと思っていました。映画『崖の上のポニョ』のように、ある日ニョキっと手足が生えてくるイメージで。
母は私のそんな考えに「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないね」とやさしく返してくれていたので、現実を知った瞬間「ママ、うそつき!」と叫んだのを今でもはっきり覚えています(笑)。
── “違い”は、日常にどう影響していましたか
学校では、両手があることを前提とした場面がとても多かったです。「みんなで手をつなぎましょう」とか「右手でボールを持ちましょう」とか。そんなときいつも「片手しかないけど、どうしたらいいのかな」「左手でも大丈夫かな」と、一瞬立ち止まってしまう自分がいました。
街を歩いていて「腕がない!」という声が耳に入り、傷つくこともありました。
でもその一方で、私はとても人に恵まれていたと思います。クラスメイトが「沙絵の手って可愛いよね」と優しく触れてくれたり、母が「愛してくれる友達とだけ歩いていけばいい」と何度も繰り返してくれたり。
だからこそ私は、違和感にとらわれすぎる事なく自分のままでいられたのだと思います。
── 周囲のサポートはどのようなものでしたか
親も先生も「できるまで待つ」というスタイルで接してくれたことは大きな支えでした。
できないことがあっても、一緒にできる方法を考えてくれました。ときには少し厳しいと感じることもありましたが、それはきっと「親がいなくなっても一人で生きていけるように」という思いからだったのだと今ではわかります。
そのおかげで「できないから諦める」ではなく、「どうすればできるか」を考える習慣が自然と身につきました。今の私の物事の捉え方や考え方にも、しっかり根づいていると思います。
── 中学の部活動はハンドボールを選ばれたのですね
はい。軽い気持ちで入ったら、想像以上に手を使うスポーツで(笑)。最初は「なぜこれを選んでしまったんだろう」と思っていました。
ですが、顧問の先生に「障害者だからって特別扱いはしないけど、それでいいですか?」と聞かれました。それまでは「手がないのにすごいね」「障害があるのに偉いね」といったフィルター越しに評価されることが多かったので、プレイヤーとして正当に見てもらえたことがすごく新鮮だったし、何より嬉しかったです。さらに別の先生からは「腕で戦えないなら、残った部分で戦え」と言われて、ハッとしました。
そこから高校・大学と続けて、スタメンにも選ばれていました。振り返れば学生時代はハンドボール漬けの日々でしたね。
── 大学時代、「陸上」で「パラリンピック」を目指し始めた
ハンドボール部の先生から声をかけていただいたのがきっかけです。
正直、はじめはとてもショックでした。「なんで今さら別の種目?」「どうして障害者枠なの?」
それまで自身の障害を特別意識することなくキャリアを重ねてきたからこそ、戸惑いや違和感が押し寄せてきたのだと思います。


── ですがその機会が、大きな転機となるわけですね
私と同じ障害をもつ方の映像を見せていただきました。ナタリア・パルティカさんというポーランドの卓球選手なのですが、なんとオリンピックとパラリンピックの両方に出場しているというのです。「え?!オリパラ両方に出れるの?!」と、驚いたと同時に「両方に属することができるなら、それは私にしかできないことじゃないか」と、希望のような気持ちが湧いてきたのを覚えています。
それまでの私は、パラリンピックに対してどこかネガティブな印象を持っていました。 障害のある人やその関係者だけが盛り上がっている。どこか“特別な世界”のように思っていたんです。でも実際の会場では、健常者も障害者も関係なく、同じ熱量で盛り上がっていた。 その光景を目の当たりにして、私の中のパラリンピックのイメージは180度変わりました。
さらに、山本篤さん(義足の跳躍選手)が金メダルを取り、周りの人たちと喜びを分かち合っていた姿が本当にかっこよくて。心が震えました。
「私も1番になってみたい」そう強く思った瞬間、パラ陸上へのスイッチが入りました。
── パラの世界に入って、得たものは?
『障害認識の変化』だと思います。
私自身、幼いころからできないことはほとんどなかったし、自分を障害者として意識する場面も正直多くはありませんでした。だけどやはり、自分の姿があまり好きじゃなかった。思春期特有の、みんなが持ってるものを、自分も欲しいみたいな感情ってあるじゃないですか。鏡を見たときや、写真に写った自分を見た瞬間に「自分はやっぱり人と違うんだな」って、ふと気づいてしまう。だからこそ、心のどこかでずっと「障害って嫌だな」って、 ネガティブに感じていたんだと思います。
だけどパラスポーツの世界に入り、これまでの生活では出会わなかった、さまざまな障害や個性を持つ人たちや、一人ひとりの生き方や選択に触れるたびに、自分の視野が広がっていくのを感じました。
誰にでも、できることとできないことがある。私にもあるし、周りの人にもある。できる人が、それぞれのできることを持ち寄って社会は成り立っている。支えてもらう瞬間もあれば、支えてあげられる瞬間もある。みんな違うからこそ、美しさや面白さが生まれる。だからもう「無理しなくていい」「ありのままでいい」。そう実感できたことが、私にとってとても大きな気づきでした。
── 義手を使うようになったのは大人になってからだそうですね
はい。「装飾義手」の存在はずっと知っていましたが、使わずに過ごしました。見た目は健常の人と近い形になりますが、重くて感覚がなく動かすことができません。スポーツを優先していた私にとっては、使わないという選択の方が自然だと感じていました。
社会人になってから、自分の意思で指を動かせる「筋電義手」に出会い「これは生活を広げる相棒だ」と感じました。
ただ、筋電義手にも課題はあります。特に感覚に頼る行為は、筋電義手でもハードルが高いと感じます。たとえば髪を結ぶときです。本来なら指先で触れて確認できますが、義手には感覚がないため上手に結ぶことが出来ません。物をつかむといった基本的な動作でさえ、両手を使う習慣がなかったことや、義手に対する物の重さの影響もあり、想像以上に難しいものでした。
私の場合は約3年かけてようやく自然に使えるようになったと感じています。



── 3年も!諦めず練習し続けられた理由は何でしょうか
明確な目標があったんです。友達と出かけたカフェでコップを二つ持って「お待たせ」って言いたくて。いつも助けてもらうことが多いし、気を遣ってくれる場面も多い。そんな日常のヘルプを、私からも返したかった。その想いが練習を続けるモチベーションになりました。初めてその場面を実現できたときは本当嬉しかったです。
また、義手を作ってくださった技師の方から「何でもできるようになるわけではないけれど、きっとあなたの生活に役立つよ」と言っていただいたことも、続けられた理由の一つです。健常の人とまったく同じにはならないという前提を持ったうえで、それでも自分の生活に必要なものとして義手と向き合うことができていました。
── 義手を使用している方へ、周囲ができるサポートはありますか?
「待ってほしい」ということです。
義手で何かをするには時間がかかります。 だからこそ、やろうとしていることを先にやられてしまうと少し悲しく、虚しい気持ちになります。できないことは「できない」と伝えるので、できるまでの過程を一緒に楽しんでもらえたら。 その時間を分かち合ってもらえることが、私にとっては何より嬉しいです。

── モデル活動を通して、伝えたいことや実現したいことがあれば教えてください
子どもの頃、テレビや雑誌で障害者をほとんど見かけずすごく孤独を感じていました。
私は「障害者として生きている」という事実と、 「障害を感じずに生きてきた」という事実の両方を持っています。だからこそ、さまざまな立場の人のあいだに立って、その橋渡しができるような存在でありたいと思っています。
写真には言葉がなくても想いが伝わり、 見る人によって解釈が変わり、想像の余白が生まれる力があると思うんです。私の写真を見た人が 「みんな違って、みんないい」と感じてくれたら、とても嬉しいですし、その風景のなかに“義手”という選択肢があることも、自然と伝わったらいいなと思っています。
── 辻さんが考える、“アクセシブルな社会”に必要なことは何でしょうか。
自分とは違う他者に興味を持つこと。そして、その違いを認め合うことだと思います。
私は障害のある当事者ですが“違い”は障害だけではありません。国籍や文化、価値観、生き方など世の中にはさまざまな違いが存在しています。
大切なのは相手の違いに対して、聞いてみること。調べてみること。想像してみること。
そうやってお互いを尊重し合おうとする姿勢が、共に生きていくために欠かせないのだと思います。


辻さんが語る「生きやすさ」の輪郭は、特別な理想ではありません。
それは、違いを否定せず互いの存在をそのまま受け入れるという極めてシンプルな姿勢。
その当たり前を積み重ねていくことこそが、私たちの社会をやさしく変えていく力になるのかもしれません。
Model Sae Tsuji
Photo Takuya Nagata (W)
Styling Remi Kawasaki (Tron Management)
Hair KURUSHIMA (Y’s C)
Makeup Sumire Ono
Interview/Text Rie Usui, Marino Asahi
Edit Marino Asahi
Producer Rie Usui